カフェ激戦区

東京におけるカフェ激戦区と言われる街は多々ありますが、なぜその街にカフェが多いのか、その理由までを知っている人は多く無いと思います。この項では、東京のカフェ激戦区にスポットを当てて、なぜその街にカフェが密集しているのか、歴史的視点も併せて紹介していきます。

目次

銀座

日本一地価が高いことでお馴染みの山野楽器本店がある銀座は高級ブランド店が立ち並ぶ街として有名ですが、高級志向の飲食店ばかりでなく、昔ながらの情緒ある喫茶店や若者にも人気のカフェも多くあります。そもそも「カフェ」という名称が日本において普及した背景には銀座の街が深く関係しています。

1911年(明治44年)、日本初のカフェとして「カフェー・プランタン」が銀座に開業しました。

1888年に元外務省官吏の鄭永慶が下谷区上野黒門町(現在の上野界隈)に開いた「可否茶館」が日本で初めてコーヒーを提供するお店として挙げられますが、カフェーの名を冠したお店は、プランタンが日本初ということで、日本初のカフェは「カフェー・プランタン」というわけです。

「カフェー・プランタン」が開業した年の8月には「カフェー・ライオン」、11月には「カフェーパウリスタ」が開業し、銀座の街にプランタンをはじめとする日本におけるカフェの原点が誕生しました。ちなみに、プランタンは現在残っておらず、ライオンは元々築地精養軒が経営していたのが、1931年に経営権が大日本麦酒へと移り、現在はビアホール「ライオン」として残っています。パウリスタは、1923年の関東大震災後に一度は撤退しますが、1970年に復活し、「銀ブラ」の由来を作ったことでも知られています。こうして、銀座から始まったカフェ文化は大正末期には全国に普及しました。

最初こそ、コーヒーや料理などを提供するに留まっていたカフェーですが、関東大震災後にその業態に変化が見られ始めます。震災の翌年の1924年、銀座に開業した「カフェー・タイガー」は女給による過剰なサービスが売りとなり、一世を風靡しました。第二次世界大戦後は新規参入業者がカフェーの名を冠して営業を行うようになった為、それまでのカフェーはバーやクラブとして営業を続けていきました。銀座にバーやクラブが多い理由に、カフェ文化が関係しているとは驚きです。

「純喫茶」という名称も、お酒や女給の接待ではなく、純粋にコーヒーを楽しんでもらう喫茶店という意味があります。詳しくは「純喫茶とは?」をご覧ください。

自由が丘

カフェ激戦区、と言うよりスイーツ激戦区と言って良いほどパティスリーが数多く点在する自由が丘ですが、なぜこの街にスイーツが集中しているのでしょうか。

元々閑静な住宅街として栄えており、東急線が通るなど、立地として申し分ない条件は整っていました。1938年創業の老舗和菓子店「亀屋万年堂」と、洋菓子店としては1933年に碑文谷駅(現在の学芸大学駅)に開業したモンブランの老舗、その名も「モンブラン」が1945年に自由が丘へ移転します。戦後の闇市跡には1952年に自由が丘デパートが建ち、時代はバブル期に突入します。

80年代から90年代にかけて、イタリアンレストラン、インテリア雑貨店、アパレルショップが建ち並び、自由が丘はショッピングタウンとして栄えます。

そして、90年代後半以降はスイーツの出店が相次いで興ります。元々、先述した「モンブラン」や、1982年開業の「DALLOYAU(ダロワイヨ)」がある中で、1998年に辻口博啓(つじぐち ひろのぶ)氏が「Mont St. Clair(モンサンクレール)」をオープンし、多くのスイーツ出店に拍車が掛かります。

2003年には、日本初のスイーツのテーマパーク「自由が丘スイーツフォレスト」が開業し、自由が丘はスイーツの街として周知されるようになります。

翌2004年には、横浜高速鉄道みなとみらい線が開業し、東横線が相互直通運転を開始したことにより、元町・中華街から自由が丘まで乗り換え無し約40分(特急なら約30分)でのアクセスが可能となり、東京都外からも往来が盛んになります。

神保町

神保町と聞いて一番最初に浮かんでくるものはやはり本の街という印象ではないでしょうか。また、カフェやカレーと答える方も少なくないと思います。本、カフェ、カレーは神保町という街の歴史を紐解くとその関係性が見えてきます。神保町においてはカフェと言うよりも喫茶店と呼んだ方がしっくりくるので、この項では喫茶店と呼称します。

そもそも神保町が本屋の街になったのは、明治時代以降の話です。江戸時代、この地に多くあった武家屋敷が明治期になると空き家となり、そこに多くの学校が建てられました。今でも神保町界隈は学生街としても知られています。

学校が増えると周辺には教科書などを取り扱う書店が多くなり、必然的に出版社や本屋が立ち並ぶようになります。

出版社が増えると、打ち合わせのために喫茶店を利用することも増えます。そもそも本と喫茶店の相性は良く、出版社の打ち合わせのために喫茶店が増えたのではなく、喫茶店が多い環境が出版社の打ち合わせに最適で、古き良き喫茶店が今でも多く残っている理由の一つに、出版業界の方々の利用が挙げられるのではないかと思います。

こうして本屋の街となった神保町にカレーのお店が増えてきたのは90年代後半です。理由は諸説ありますが、本を読みながら片手で食べることができるというのが一説として挙げられます。また、その中でも神保町がカレーの街となる先駆け的存在が「ボンディ」と言われています。1978年創業の同店は、当時では珍しい高級志向の欧風カレー店として連日行列が絶えない名店として、今なお注目されています。学生街という環境も、カレー屋繁盛の要因に一役買っているのでしょう。

ここで、学校、出版社、喫茶店の一部ではありますが、創業年代順にまとめたものを見てみましょう。

  • 1882年 専修大学
  • 1886年 明治大学
  • 1886年 共立女子大学
  • 1895年 日本大学
  • 1918年 駿台予備校
  • 1928年 東京医科歯科大学

学校に関しては創立年と神保町界隈に移転してきた年が混在していますが、80年代後半から90年代初頭にかけて多く見受けられます。

  • 1881年 三省堂
  • 1890年 東京堂出版
  • 1913年 岩波書店
  • 1915年 白水社
  • 1922年 小学館
  • 1926年 集英社
  • 1960年 晶文社
  • 1978年 研文出版
  • 1986年 ウェルテ

出版社や書店も各学校と同時期か少し遅れて建てられている印象です。また、神保町のシンボルともいえる三省堂書店神保町本店は建物の老朽化のため、2022年3月で営業を終了し、同年4月よりビル解体を始めるとの事。神保町を象徴する最古参の書店が閉店するというのは、非常に残念ですが、2025年から26年頃に新しいビルを竣工予定です。

三省堂神保町本店は地上8階建て。6フロアで書籍を販売し、飲食店なども出店している。三省堂書店の本社も入居する。発表によると、現在のビルは1981年3月に竣工。三省堂書店の創業100周年記念事業として建てられたものだった。

ビルは建設から約40年が経過し、建物設備の老朽化が進んだことから、隣接する第2・第3アネックスビルを含めた建て替えを決定した。22年3月下旬で神保町本店の営業を終了し、同年4月より解体を開始。新しい建物は2025~6年頃の竣工を予定する。

新しい建物については「本の街・神田神保町にふさわしく、今後も多くのお客様に愛される新・神保町本店を検討して参ります」と説明。建て替えに伴う本社の移転先、工事期間中の仮店舗は現在検討中だとした。

2021年09月02日木曜日14時11配信 J-CASTニュース(https://www.j-cast.com/2021/09/02419491.html?p=all) 参照

学校、出版社、書店に続く形で喫茶店が開業していきます。

  • 1949年 ラドリオ
  • 1953年 ミロンガ・ヌオーバ
  • 1955年 さぼうる
  • 1972年 神田伯剌西爾
  • 1976年 トロワバグ
  • 1980年 古瀬戸
  • 1983年 壹眞珈琲店
  • 1984年 Voici cafe
  • 1993年 珈琲舎 蔵

これらの年表からも、学校→出版社/書店→喫茶店→カレー屋の順に街が活気付いてきたことがわかります。先述した通り、建物の老朽化などにより書店だけでなく、飲食店も撤退したり、街の様相も変化しつつある神保町ですが、それでも歴史を重んじ、新しい風も柔軟に受け入れて新旧相まってより良い街になっていく今後の神保町に注目です。

蔵前

蔵前が「東京のブルックリン」と呼ばれるようになったのは最近の事。アメリカはニューヨークのブルックリンの特徴として、同区を流れるEast River(イースト川)と、70年代までは製造業の地として発展してきた経緯があります。蔵前にも隅田川が流れ、玩具や革製品などの問屋が多く軒を連ねています。

そもそも蔵前という地名の由来は、江戸時代に隅田川を下って船で運んできた米を保管しておく米蔵が多くあったことに起因します。当時の武士の給料は現金の他に米も使われており、給料としてもらった米を武士は現金に替えて浅草界隈で豪遊していました。米を現金に替える両替商が浅草界隈に多くあり、その手数料で儲けた両替商も浅草界隈で豪遊し、浅草は大いに発展していきました。

話を蔵前に戻します。時代が進むと道路交通網が整備され、河川による船運は衰退し、米蔵も用途を失っていきました。米蔵だけでなく、江戸時代から続く問屋も店を畳んだりなどして、空き倉庫が増えていきました。そこで、そのような倉庫を再利用する動きが興り、倉庫をリノベーションしたゲストハウスやカフェ、あるいは雑貨店などが増え、蔵前という街全体が活気付いてきました。

近年はモダンなインテリアのカフェや雑貨店も増え、古き良き物づくりの街としての顔と、倉庫をリノベーションしたお洒落なカフェ文化が混在し、「東京のブルックリン」と呼ばれるようになりました。

清澄白河

清澄白河も先述した蔵前に似ているところがあります。清澄白河を擁する深川界隈は、江戸時代に幕府が塩を運ぶための運河を整備し、物資を貯蔵する蔵を多く建造しました。その倉庫を再利用して多くのカフェが誕生した経緯は、蔵前に良く似ています。清澄白河も隅田川に接していますが、幕府が整備した人工河川である小名木川が物資輸送の要となっていました。ちょうど隅田川と荒川を東西に真っ直ぐ繋ぐように造られた小名木川は徳川家康の命により整備され、荒川との合流地点には現在「中川船番所資料館」があり、水運の歴史を探ることができます。ちなみに、清澄白河にも「深川江戸資料館」があり、当時の生活を見ることができます。

そんな清澄白河といえば、2015年に日本初上陸したサードウェーブコーヒーの先駆者「ブルーボトルコーヒー」が有名です。ここ「ブルーボトルコーヒー」のように巨大なロースターを店内に配置できるのが、倉庫リノベーションカフェの強みの一つでしょう。まさに上質なコーヒーにこだわるサードウェーブならではの特徴と言えるでしょう。

清澄白河は、カフェだけでなくアートの街としても実は知られています。1995年に東京都現代美術館が開館すると、街内に多くのアトリエやギャラリーができるようになりました。カフェ巡りに加えて、アート巡りも楽しめる街です。

吉祥寺

住みたい街ランキングで常に上位をキープしている吉祥寺もカフェの街として周知されています。

元々、吉祥寺という寺は吉祥寺には無く、江戸本郷元町(現文京区本郷一丁目)にあった諏訪山吉祥寺が由来とされています。1657年の明暦の大火により諏訪山吉祥寺と門前町が焼失し、その門前町の住人が現在の武蔵野市東部に移住したことで今の吉祥寺という地名が生まれます。その後、1923年の関東大震災によりさらに被災者が吉祥寺に流入し、人口が増えて住宅街、学生街、繁華街として栄えていきます。

吉祥寺だけでなく、高円寺や中野などの中央線沿線は、演劇や音楽、サブカルチャーの街として知られています。吉祥寺には戦前から劇団が根付いており、劇場、ライブハウス、ジャズ喫茶などが点在します。また、漫画家の先生方の住居、アニメーション制作会社、学校も多く、カフェ文化が栄える要因が揃っているようにも思えます。同じように、学生街である神保町にはないサブカル感が吉祥寺という街の持つ独自の魅力の一つではないでしょうか。

また、井の頭公園も吉祥寺を語る上で外せないスポットです。元々住宅街として栄えた吉祥寺において、地域住民の憩いの場として井の頭公園は重宝されてきました。園内には自然文化園、ジブリ美術館、テニスコート、野球場、ボート場、野外ステージ、43,000㎡の井の頭池を擁する総面積約43万㎡の広大な公園は四季折々の様相を呈し、散策には最適です。園内にもカフェが数軒あるので、公園を訪れた際には散歩の小休止に利用してみるのもいいかもしれません。